こんにちは、hoshi’s-noteです。
今日は僕の人生を根底から変えた、ある「空白の1年間」についてお話しさせてください。
これは前編。最初の半年のお話。
2年前、僕は「急性白血病」という宣告を受けました。
その瞬間、頭の中は真っ白になり、本気で「あぁ、オレの人生はここで終わるんだ」と思いました。
しかし今、僕はこうしてまたハサミを握り、キーボードを叩いています。
あの日々、病室で何が起きていたのか。少しだけ振り返ってみたいと思います。
無菌室という名の「孤独な戦場」
入院生活は半年間に及びました。 待っていたのは、想像を絶するほど過酷な抗ガン剤治療です。
白血病とは血液のガンです。
他の内蔵系のガンと違うのが、ガンの部位を切って取り出す手術ができない。そのため、抗ガン剤と放射線治療でしかガンをやっつけれないということらしいのです。
という理由から、長期間強い抗ガン剤を何種類も使っていくとのこと。
説明されててもどんだけ辛いかは、この時点ではよくわかっていません。
ところが、治療が始まり…
しばらくして髪の毛は抜け落ち、気がつけば脇やすね毛、全身ツルツルになってきました。
初めは鏡を見るのも辛い日々。 でも、僕は髪がない自分にはすぐ慣れました。
というより、治療がしんどすぎて髪なんてどうでも良かったというのが本音。
無菌室という隔離された空間で、抗ガン剤と放射線治療を繰り返し、最後は「臍帯血移植(さいたいけついしょく)」というものを受けました。
副作用はまさに地獄でした。
一日に十数回も続く下痢、止まらない嘔吐。何も食べる気はしない。食べれない。食べてもすぐ戻す。
年齢関係なく同じ治療をしている患者さんたちは、ほぼ皆んなオムツ生活。トイレに間に合わないから。
白血球が機能しなくなるので、すぐに感染症とかになりやすい状態らしく、歯磨きやうがいでお口の中を常に清潔に保たないといけません。
でも、歯ブラシで「オェッ」となり吐く。けど、清潔に保つ。
薬飲んで吐く。それを頑張ってまた飲む。この繰り返し。
筋肉はみるみる衰え、自分の体とは思えないほど痩せ細っていきました。
元から痩せ型ですが、さすがにヤバい状態でした。
ペットボトルのキャップが開けれなくて、看護師さんに開けてもらう時があるくらい。
夜中に隣の患者さんが「助けて、助けて、助けてぇーーーーー」と突然叫びだしたことが忘れられません。
はい。辛くて発狂する人がいてもおかしくはないです。
辛い治療なので無菌室に入る前に、精神科の先生と看護師さんの面談があり、サポート体制を整えてくれました。
「なぜ自分が」「ふざけんな」 そんな弱音が、何度も何度も喉元まで出かかりました。
それでもとにかく歩き続けた理由
そんな絶望的な状況の中で、僕が自分に課したルールがありました。
それは「毎日、病棟の廊下を歩くこと」です。
時には抗ガン剤を投与しながら、点滴3つ4つぶら下げて、ただひたすらに廊下を往復。
もう僕の中には「絶対に治して復帰する」という強い思いがありました。
早期復帰を目指し、這ってでも動く。
その執念が届いたのか、当初「退院まで8ヶ月はみてください」と言われていたところを、僕はわずか6ヶ月で退院することができました。
医師からも「最速ですよぉ」と言われたのは、僕も嬉しかったです。
「生還」は一人では成し遂げられなかった
「人生が終わった」と思った絶望から、僕が這い上がってこれたのは、自分の意志だけではありません。
どんなに顔色が悪くても励まし続けてくれた家族(無菌室で直接の面会はできないで、窓越しというか別室でスマホを使っての会話)
変わらずに待っていてくれた友人たち。 彼らの支えがあったからこそ、僕は移植という高い壁を乗り越えられたんだと思います。
美容師仲間の友人たちには本当に感謝しかないです。みんなが僕がいないサロンを手分けして手伝ってくれ、僕が帰る場所を残してくれたんです。
「友達って最高だな」心底思える瞬間でした。この話はまた別で書きたいと思っています。
退院、それは「新しい戦い」の始まり
ようやく手にした退院。 しかし、家に戻ればすべてが元通り……というわけにはいきませんでした。
体は思うように動かず、毎日必死にリハビリ、筋トレ、ウォーキング。
退院してからも、しばらくは嘔吐や移植後の副反応といった合併症に悩まされる日々が続きます。
真夏なのに長袖。紫外線が良くないらしい。
それでも、無菌病棟から見上げていた空を、今度は自分の足で歩きながら見上げられる喜びは、何ものにも代えがたいものでした。
ここからの「自宅療養という名のもう一つのリハビリ生活」については、また後編のお話で詳しく書かせてください。
なんせ美容師になって半年もハサミ握ってない期間なんて一度もなかったので、仕事できるのか不安しかなかったです。